わたしのヒストリー 前田美恵子さん(100歳)(グループホームきじょか入居者)

人生はたった一度と言われますが、その人の歩んだ人生は唯一のもの。その貴重な体験を「私のヒストリー」(ライフヒストリー)と題してご紹介します。

『赤ちゃんがかわいかったから続けられた』~助産婦として地域のお産を支える~

グループホームきじょか

グループホームきじょか入居者 前田美恵子さん(百歳)毎日楽しいですよ~100歳の笑顔

グループホームきじょか

学生時代の前田さん(上段右から2番目)

 十代後半にすぐ上のお姉さんと東京で働きながら(東京機器記念病院の調理部)助産婦学校に通いました。当時は医学となると学ぶのにお金が必要だが、助産婦は働きながら短い期間で資格が取れたので、姉と相談して自分に可能なのは何か、助産婦だったら大丈夫ではないかという事で決めました。

東京の事は今でも忘れられません。とっても楽しかった。よく働きました。結婚の為に沖縄から呼ばれました。「♪東京の人よ、さようなら♪」という歌を歌いながら帰ってきました。

 同じ喜如嘉の前田貞四郎さんと親の勧めで結婚しました。当時の写真が喜如嘉誌に残っていますが十組で合同結婚式をあげました。四人の子供に恵まれました。子育てしながら助産婦の仕事に復帰しました。その後、夫が那覇に転勤になったので家族で引っ越しました。

ヒストリー

助産婦時代の前田さん とりあげた赤ちゃんと記念写真

同郷の人がたくさん暮らす繁多川入口で、村内出身者四人で新生助産院を始めました。たくさんの村出身者のお産の手伝いをしました。時代とともにお産は病院でするようになると、小さい子供を預かる場所が少なかったので乳児園みたいになり、そのうち幼児も預かるようになり、職員も増え、場所を三原に移転し保育園になりました。

二十四時間保育を行い、夜の仕事や用事の為に短時間預ける方や市の福祉の乳幼児も居て昼も夜も子供たちを預かりました。 同僚とアイデアを出し赤ちゃんを寝かせる籐のブランコを注文し、ぐずる子を乗せてあやし、たくさんの子供を保育する工夫をしていました。

ヒストリー

孫の沐浴も慣れた手つきで

六十一歳で夫の仕事の関係で喜如嘉に戻る事になり、保育園は一緒に働いた職員に譲りました。子供たちは本当にかわいかったです。だから続けられたと思います。

 六十二の頃、母親が亡くなり、きょうだい六人のうち長男と二番目の姉がペルーに渡っていたので、両親と先祖の位牌を一人で届けに行きました。英語も何も話せないが位牌を届けることは最後の親孝行だと思い、勢いで行きました。今でも姉の住所は覚えています。

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美恵子さんとペルーの親せき 美恵子さんと兄 ウルバンバ渓谷

七十二歳の頃、夫とすぐ上の姉と私の三人でペルーのきょうだいに会いに行きました。あちこち案内してもらって楽しかった思い出がいっぱいです。

 移民した方は写真を撮り生活の様子を沖縄へ送る習慣があるので、記念写真がたくさんあります。ペルーの親戚は「いつでも又、遊びにいらしゃい」と今でもさそってくれます。でも、あちらから沖縄に訪ねてくることが多いです。兄と姉はペルーでなくなりましたが、親戚との交流は今でも続いています。 ※前田睦子(娘)さんに聞き書き取り


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