わたしのヒストリー 大城弘吉(デイサービス利用者)

人生はたった一度と言われますが、その人の歩んだ人生は唯一のもの。その貴重な体験を「私のヒストリー」(ライフヒストリー)と題してご紹介します。

『護郷隊に参加した苦い思い出』

十七歳の時、招集礼状が来て東村から四名青年が恩納村安冨祖に歩いて行きました。安冨祖学校は閉鎖され護郷隊の訓練場として使われていました。 恩納岳のてっぺんに兵隊さんがいたのでそこに食料を運ぶ仕事が主でした。山の途中の飯場では、敵に見られたらすぐ大砲が撃ち込まれるので全部テントで囲って煙や火が見えないようにしていました。 山頂の陣地で銃撃でやられて歩けない兵士を下す作業もしました。残酷だったのは、最後のせっぱつまったころ隊長が歩けない人は下に降ろせないので銃殺しました。 陣地は占領されたのでついに武装解除し、やんばる方面まで皆で歩いて帰りました。甲板に敵はいて、日が暮れたら真っ暗で道が見えないので夜が明けるのを待って歩きました。 明かりはつけられないので、白い紙を背中にくびって前の人を追いながら歩きました。米兵が途中は封鎖し金網を張り回していたので歩ける程度に切断し横断しました。ちょっとでも動かすとぶら下げている缶がカランカランと音がするので敵に発砲されるかと恐ろしかったです。 途中で避難民の衣類を借りたり戦友の奉公袋という袋に米が入っていたのでもらって歩いて帰ってきました。アメリカは運動場などを占拠し捕虜として住民を使っていました。 あっちに行けば食べるものがあると言って自分から行く人もいました。そうして命をしのいで生きていました。ぜひ、自分の部落に帰りたいとゆっくりゆっくり命からがら帰ってきました。

大城浩吉さん

家が有った場所に家族はおらず、東の山に避難していたので探しながら皆が集まってくらしているところを探し帰ってきました。あのような恐ろしい経験は二度としたくないです。

前のページへ戻る

 

 

当サイトはSSL暗号化通信により安全に保護されています。

QRコード