わたしのヒストリー「家族を支えて」

私のヒストリー

 人生はたった一度と言われますが、その人の歩んだ人生は唯一のもの。その貴重な体験を「私のヒストリー」(ライフヒストリー)と題してご紹介します。

「家族を支えて」真喜志喜美(特養やんばるの家入所者)

 夫は警察官で那覇で勤務していました。私は一人息子の子育てと、長男である夫の両親の介護を大保でしていました。

 終戦直後は名護市田井等の収容所に家族で居りました。軍によって家族が引き離されそうになった時、夫が結核を患っていたので、家族を離れ離れにさせないでと願い出ました。

病に伏せている夫に栄養をつけさせようと、たんぱく源であるカエルを田んぼに獲りに行き、両腕をハブに咬まれました。

塩屋の病院に行ったが丁度、医者がいなくて看護婦が傷口をナイフで切り、血を出し助けられたこともありました。夫は三十三歳で亡くなりました。

 両親を看取った後、那覇に出て長男と生活を始めました。県立那覇病院(現在の琉大附属病院)で看護助手として働きました。

昭和55年 病院関係業務に精励したとの事で文部大臣表彰を受ける

姪がお産したが生まれたばかりの子の様子がおかしく、勤務していた病院の外科医に頼み込んで手術をしてもらいました。

集落の行事や催事にも積極的に参加

奇跡的に助かり、今でもその子が「喜美おばさんは命の恩人」と言ってくれます。成長していく姿を見てうれしく思い「命が助かったんだから、長生きしなさいよ。」と言っています。

 退職後は兄のいたペルーに弟と墓参りに行ったり、関西に住んでいた息子の所に孫を見に行ったりして楽しみました。

古典音楽 野村流師範に師事し本格的に三線を学ぶ

余生はやんばるで過ごしたいという希望がありました。ヒラヤチーと砂糖てんぷらを作るのが得意で孫たちに作って喜ばれていました。

大保の自宅庭には花をたくさん植えていました。三十三歳で亡くなった夫の三倍生きてきました。(本人、息子さんに聞き書き)

琉歌

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