わたしのヒストリー 特養やんばるの家入所者

特養やんばるの家 嵩原ツルさん(94歳)

機織りが好きだった

嵩原ツル

特養やんばるの家利用者 嵩原ツルさん

 戦時中は和歌山県紀ノ川軍事工場で働きました。南方に送る大きいテント、蚊帳、海軍綾木綿、陸軍平織りで服を作りました。陸軍と海軍では生地が違いました。一から十まで織りの経験をしました。そこで織りを覚えました。悲しいことに、そこは空襲で一晩で焼け野原になりました。
織りが大好きでした

芭蕉布を織るツルさん

 喜如嘉に帰ってから芭蕉布織の仕事を長年行いました。 芭蕉布は畑で芭蕉木を根っこから倒して上辺の悪いところは捨てます。一番いいのはナハグーと言って真ん中の繊維は着物用、2番はナハウーで帯用、3番目はなんと言っていたかな?忘れました。

 畑からとってきたウー(繊維)は繋いで、かせかけて、絣に染めて、柄を織ります。絣を織るときは三〇センチ物差しをもって機織りをしました。無地は自分の目で図っていました。行程がたくさんありましたが今は忘れたこともあります。

芭蕉布工房の名嘉真と3時茶(手前左がツルさん、3番目は敏子先生)

 きれいに織ってから、京都や東京の品評会のようなところに出して、合格したといって額をもらったことも有ります。

 平良敏子先生(人間国宝)との思い出は、合格できるように、こうして織りなさいああしなさいと丁寧に教えてくださいました。敏子先生は私より4つ年上です。まだまだ元気でやっておられるようですね。ここに写真(新聞記事のコピー)を貼って毎日見ています。

敏子先生の嫁の美恵子さんは福井県から嫁に来ていますが芭蕉布のことはよくわかっていました。織ったものをあちこちの展示会に出して戻って来たものは美恵子さんが売らないで置いておこうねと取っておいてくれました。

 喜如嘉エイサーの着物は自分で織りましたが体が思うように動かず、着けて踊ったことはなかったです。 若いときは運動会で走ったらリレーでは一番でした。陸上が好きでした。今でも走ることが出来たら、喜如嘉まで走って行って田んぼの菖蒲の花を見たい。今年も沢山咲いているよと息子が電話で教えてくれました(本人に聞き書き)


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