わたしのヒストリー 小規模いっしん利用者

小規模いっしん利用者 新城ハナさん(109歳)

指先のリハビリに励む

 戦前は義理の父(牛助)が小さな店をやっていて、譲り受けました。宜野座家(屋号)の一角で店はやっていました。店の後ろに住んでいました。専売公社のタバコ、塩の販売を中心に「今川焼」を焼いて売りました。先代からの商売のノウハウを教わって、店の表で焼きながら販売しました。子どもたちも今川焼の手伝い等はしてくれました。長女は良く手伝ってくれました。その頃は余裕もあって豊かな暮らしでした。

ヒストリー

左から義理の父・牛助、夫・和一(わい ち)、ハナさん、次女、次女の子

 商売もしながら農繁期には米を作って、タードウシといって田んぼに畝を作りサツマイモも作っていました。養蚕もしていました。息子の国民学校入学式には自分で糸を紡いだ絹で洋服をつくりました。養蚕室も自宅の一室にありました。桑畑も持っていましたが足りずに、歩いて東村高江まで行き、担いで帰ってきていました。

 戦争中から戦後にかけては非常に苦労しました。長男が国民学校三年の時、米軍が上陸して、夫は防衛隊(金武の特殊専攻艇の船の管理?)にとられて家にいないので、押川の隣の小さい集落ハレールという所にに知り合いがいて、家財をあげて一家で避難させてもらいました。 その後三月三十一日にさらに奥山に避難しました。大雨が降って、山奥で住むところもないので炭焼き小屋で一晩過ごし、その翌日小屋を建てました。山では食料調達しなくてはならないので、集落近くの段々畑に芋を植え、夜明けにかけて一人で堀りに行っていました。 一度は夕方、雨も降っていて米軍が近くまで来ているのに気づかず、芋を取っていて、見つかり逃げました。銃でパラパラとやられながら逃げました。夜になって米軍がいなくなったのを見計らって落とした芋を拾いに行きました。あちこち体中、泥や血だらけでした。翌日も同じように調達に行きました。それが一番きつかったです。七月までそこで過ごしました。

若かりし頃のハナさん

終戦を迎えましたが、塩屋の集落は米軍がガソリンをまいて焼き、ブルドーザーですべてを潰し占領したので、帰ってこられませんでした。根路銘から降りて喜如嘉の収容所にいきました。 戦後はサトウキビ、パイン、ミカンを栽培するのが主な仕事で家畜を養ったり、豆腐を朝早く作って売ったり、とにかく働きました。寝る間も惜しかったです。自分では人に話したことはないです。 『長男和治さんに聞き書き』
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