わたしのヒストリー デイサービス利用者 宮城キヨ(九十五歳)

 人生はたった一度と言われますが、その人の歩んだ人生は唯一のもの。その貴重な体験を「私のヒストリー」(ライフヒストリー)と題してご紹介します。

デイサービス利用者 宮城キヨ(九十五歳)

民謡愛好会のメンバーと(上段左)

 八重山に移民し昭和四十五年頃、生活の糧に家族でヤクルト販売をしました。最初に販売店しませんかと声をかけてくれたのは大宜味出身の人でした。それで懐かしくもあり、やってみようかという気持ちになりました。

 夫は車で田舎の方面に、私は歩いて近くを配達しました。次男は中学生でしたが集金をしてくれました。小学生の息子は自転車のかごに入れて配達していた時に転んで瓶を割って泣いたこともありました。当時ヤクルトはビン容器でした。今の容器は特許を取っているみたいですね。

 朝五時から配達して午前中は常本といって各家々を決まった本数を配達して回っていました。当時ヤクルト一本は5セントでした。

 犬にほえられたこともありました。女の子がいてあまりにかわいいから一本あげたら、追いかけてきて「お母さんの分もちょうだい!」と言われてまいりました。五階建ての建物も私はエレベーターが嫌いだから階段を駆け上がっていました。ヤクルト球団が優勝した時には「優勝したからヤクルトおごれ!」という人もいましたよ。

 ヤクルトはシロタ株といって特別な飲み物で毎日一本以上飲むと健康になりますよという営業の勉強会もありました。ヤクルトの専用の配達かばんや押し車もありました。制服も年二回夏冬支給があって、毎月一回は宴会もあって、模合もしていました。

 八重山は海人が多かったから奥さんが買って沖に出る船乗りに持たせていたみたい。いいお客さんで今でも友達していますよ。息子が最近、八重山に行ったときに刺身をふるまってくれたようです。

 一日5百本以上売上げした人は代田賞と言って表彰がありました。愛知県まで全国表彰式に沖縄の各販売店から団体で行きました。褒美に金の指輪をもらいました。十ヶ年務めたから退職金もありました。夫が五十七歳の時に病気で倒れました。片麻痺になりましたが左手で自転車に乗って配達していました。頑張りましたが家計が苦しくなってやめました。八重山移民生活で苦労もしたが楽しい思い出です。


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